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予備校講師×子育て

興味が湧いたら学びどき

「パパ、オダノブ好き?」

「え?」

 最近、歴史に興味を持ち始めた長女。「オダノブ=織田信長」でした。長女は昔から、こちらで紹介したような「かわいい女の子が出てくる本」が好きだったのに、なぜ急に戦国武将に興味を持ったのか。きっかけは下のシリーズだったようです。

 『戦国姫』(集英社みらい文庫)。やはり「かわいい女の子」か…。織田信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせるのですが、織田と浅井が対立したことで、お市は難しい立場に置かれます。娘いわくこの状況は「たまらない三角関係」とのこと。歴史を小学生女子視点で考えたことがなかったので、面白い見方だなと思いました。話は少し逸れますが、2021年に金沢大学入試で「グローバルヒストリー」に関する文章が出題されました。グローバルヒストリーとは、歴史を一国、一地域ではなく地球規模の枠組みで捉え、歴史上の出来事を世界的な相互連関の中に位置付けて記述しようとする試みです。視点をどこに置くかで見え方は変わってくるわけですね。

 さて、興味が湧いたら学びどきです。せっかく子どもが歴史に興味を持ったのですから、この時機を逃してはいけません。「戦国」に関連する体験をさせたいなと思い、家族で小田原城へ行ってきました。北条氏の居城です。


 天守閣は博物館として大変綺麗に整備されていました。「戦国勢力図」の前で寝そべって足をばたつかせている3女の対応に追われた後、長女を見ると、必死に「歴史年表」を読んでいます。正直、歴史年表ってあんまり面白くないですよね(笑)。長女を連れて来たのが3ヶ月前だったら、彼女も素通りしていたことでしょう。改めて、興味をもっていること前のめりになっていることの力を感じます。
 最上階からの眺めは素晴らしく、相模湾、伊豆大島、真鶴半島などが見渡せました。

「大阪城と名古屋城にも行きたい!」

 寝る前の長女の言葉です。大阪城と名古屋城は博物館のパネルで見た「全国『天守』高さ比べTOP10」の1位と2位でした(小田原城は7位)。体験して興味が広がっていくのは素晴らしいことですね。新学期が始まるとなかなか時間を作りづらいのですが、1泊2日で名古屋であれば行けるかな…。

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予備校講師×子育て

ヴァーチャル→リアル

「森で木の枝を拾いたい」

 昨晩次女に突然言われたので、朝から府中市の公園へ行ってきました。「森」とは言えませんが、背の高い木がたくさん生えています(写真左)。到着するなり、嬉しそうに木の枝拾いを始める次女(写真中央)。なぜ急に木の枝に興味を持ったのか…。理由がわかったのは、切り株(写真右)を見つけた時の次女の発言でした。

 「あっ、作業台!」

 「切り株=作業台」。間違いなく「あつまれ動物の森」(NINTENDO SWITCH)の影響です(笑)。わが家では先々月ようやくスイッチを購入し、このところ長女と次女が「あつ森」にハマっています(僕のテントにはゴキブリが出ていますが、娘達が建てた家はずいぶん立派になりました)。ゲーム内では島で拾い集めた「木の枝」を材料として、切り株の「作業台」の上で様々な道具を作ります。それに影響されて、リアルの世界でも木の枝拾いをしたくなったのでしょう。ゲーム空間は現実空間を模した「ヴァーチャルリアリティー」の世界ですが、次女は「ゲーム空間→現実空間」という順序で木の枝拾いを体験しているわけですね。

 武蔵大学で次の文章が出題されたことがあります(2013年)。

 子どもにとっての「バーチャルリアリティー」とは、見かけは異なるが、彼らが生きる現実世界の本質部分を備えていて、同等の効果を発揮して子どもたちを包み込んでくれる世界ということになろう。子どもたちが、大人にもまして想像的世界に遊ぶ存在であり、そのゆえの架空の世界を必要とするならば、人工的に創出される「バーチャル」な世界も、そのような特質を備えていなければならない。子どもたちが、動物を捕まえたり、それらを飼育することを好むならば、創出される世界にも動物狩りや動物飼育の場が用意されていてしかるべきであろう。子どもたちを魅了した「ポケットモンスター」やペットの「飼育ゲーム」は、少なからぬ大人たちの顰蹙を買いはしたが、子どもの世界のある種の本質が捕捉されていて、それがコンピュータ・ゲームとして生成されていたという点で、子どもたちに「人工現実感」を体験させていたであろうことは疑うべくもない。 

本田和子『子ども100年のエポック』

 自然の中で遊ぶという経験の幾らかは「あつ森」でも体験できるということでしょう。続けて引用します。

 子どもたちが喜々として入り込んでいく「バーチャル」な世界に、もし、先行する大人世代が介入する余地があるとすれば、こうした現在の不備に対処すること、具体的には、「体性感覚の重視」とそのための「機会の提供」ということになろうか。

本田和子『子ども100年のエポック』

 子どもがバーチャルな世界に浸ることを一概に否定すべきではありませんが、その世界には、自分の手で触り、身体を通して実感するという経験が欠如しています。したがって、大人は「機会の提供」を意識しなくてはいけない。やはり実体験「も」大切だということですね。今度家でゴキブリが出たら、娘に退治させようと思います。

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雑記

読書の工夫➀【かさねる読書】

 僕が本を読む動機は【楽しいから】と【仕事で必要だから】が半々くらいです。「根っからの読書好き」というタイプではないので、時には自分を読書に向かわせる工夫が必要になります。ここではそんな「読書の工夫」を思いつくままに挙げていきます。初回は【かさねる読書】です。

文字(本)+ 映像・絵(映画・マンガ)

 「〇〇について理解を深めたいけれど、難しそうだな。とっつきにくいな」というとき、僕は映画やマンガを活用します。映画やマンガの優れた点は、視覚情報が与えられるので具体的にイメージしやすいこと、また、—良作であればー心を動かされるので、対象についての興味が喚起されることです。「興味」の大切さは、日々の授業で痛感するところで、文章の内容やこちらの話に興味をもち、前のめりになっている生徒は半年後でもその内容を覚えていますが、逆に「興味無いです」という顔の生徒は、1週間後にはほぼ丸々忘れています(→どうやって生徒の興味・関心を喚起するかが、ぼくの授業のテーマの1つです)。
 あるテーマについて、基礎知識が無い状態で文字情報だけ取り入れても理解が難しく、記憶にも残りにくいのですが、はじめに映像的なイメージがあると、そこに文字情報を貼り付けていくような感じで、理解を深めることができます。文字情報と(映像・絵などの)視覚情報を重ねていくイメージですね。以下、そんな【かさねる読書】の実践例を示します。

◆ ◆ ◆

〖テーマ〗「ドイツ現代思想」
→昨年(2021年)の早稲田大学入試でドイツ現代思想に関する文章が出題され「もっと理解を深めなくては」と思ったのが学びの動機です。下の画像をご覧ください。上段が〖読んだ本〗で、下段が〖観た映画〗(左の2作品は最近、右の3作品は1年以上前に観たもの)です。

 本は『フランクフルト学派』→『戦後ドイツ』→『現代ドイツ思想講義』の順で読みました。仲正先生の『〇〇講義』のシリーズは、他にいくつか読んだことがありますが、想定している読者のレベルがやや高く分量も多いので『フランクフルト学派』と『戦後ドイツ』で基礎知識を固めてから挑戦するという作戦です。ただし、この2冊も、初学者向けとはいえ専門家が書いた(良い意味で)堅い本なので、映画を見て具体的にイメージしながら読み進めます。
 映画として1番面白かったのは『帰ってきたヒトラー』でしたが、本の理解という意味では『顔のないヒトラーたち』が最も役立ちました。この作品で描かれていた戦後ドイツの様相は、『戦後ドイツ』p.122の記述そのものでした。下に示します。

(アウシュヴィッツ裁判の)被告人たちが戦後は「カタギの」職につき、誰からも好かれるごく普通の善良な市民として家族、友人、同僚たちのなかで暮らしてきた事実は、「人あたりの良さ」とか「品のいい物腰」とか「物分かりの良さ」というものが、いかなる防波堤でもないことを思い知らせた。むしろ、そうしたものは、社会的適応の産物でしかなく、そのつど強い方につくという権威主義的パーソナリティの現われ以外のなにものでもないのではないかとすら思わせた。

三島憲一『戦後ドイツ』p.122

 漠然と、ドイツでは戦後すぐに戦時の行為を反省する動きがあったのだと思っていたのですが、そうした動きが本格化したのは1960年代だったようです。『顔のないヒトラーたち』からは、1950年代後半から60年代前半のドイツのそうした「雰囲気」がよく伝わってきました。
 『オデュッセイア物語(上)』『オデュッセイア物語(下)』は、当初は読むつもりはなかったのですが、『現代ドイツ思想講義』の中で紹介されており、アドルノ&ホルクハイマーの思想(=理性は野蛮につながっている)の理解につながりそうだったので読みました。ドイツ現代思想とは関係ないですが、オデュッセウスが怪物を倒すシーンが『古事記』と似ていたり、魔女キルケ―の能力が『高野聖』の女と似ていたりと、いろいろと日本の話との類似点があって面白かったです。思わぬ広がり、つながりを見せてくれるのが読書の楽しみの1つですね。 

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予備校講師×子育て

建築(段ボールハウス)

 先月の話ですが、ネット通販で購入したカラーボックスが大きな段ボールに入って届いたので、段ボールハウスを作りました。子どもって「秘密基地感」のあるものが大好きですよね。下の文章は中央大学で出題されたものです(2012年)。

フランク・ゲーリーは、かつて建築と美術の違いは何かという質問に対して、次のように答えた。「簡単なことです。建築には窓があり、美術には窓がない」。ゲーリーは彼一流のひどくラフでフランクな語り口を装ってはいるが、この定義は決してラフでも曖昧でもない。(略)窓は単に内部と外部を仕切る建築的な道具だてではない。窓は主体が対象を見るための(あな)であり、そして窓はリバーシブル(反転可能)である。すなわち窓があるということは、建物の外部から建物の内部を見ることができるだけではなく、建築の内部からも建築の外部を見ることができるということを意味する。

『新・建築入門』(隈研吾/ちくま新書)

 美術(例えば彫刻)はこちらから一方的に見るだけですが、建築はこちらから見るものであると同時に、内部から外部を見ることもできます。ゲーリーは、そうした主体の反転可能性を建築の本質と考えたということですね。

見て、見られています。

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予備校講師×子育て

1巻作戦

娘に本を読んでもらいたい。でも、押しつけたくはない。


 子どもに本を読んでもらいたい親であれば誰もが(?)直面する問題だと思います。小学生の低学年ぐらいまでは自分で新しい本にアクセスする力が弱いので、完全放任だと読む機会が生まれにくい。一方、押しつけられた読書はめちゃくちゃつまらないと思うので「読みなさい」とは言いたくない…。このバランスが難しいですよね。娘を本屋に連れて行き、好きに選ばせようとしたこともあるのですが、長女は(本が好きなくせに)かなりの「食わず嫌い」気質で、新しいシリーズにはなかなか手を出しません。

 そこで僕がよくやるのが「1巻作戦」です。本屋やBOOKOFFで娘が好きそうなシリーズの1巻だけを買ってきて本棚に並べておきます。買ってきたことも言わずに後はただ待つだけ。すると、数日、あるいは数週間後、「パパ、〇〇面白かった!」と言ってくることがあります。何かのきっかけで本棚の本に目が留まり、「何これ?読んでみよう」という感じで読み始めたのだと思います。娘には娘の「新しい本を読みたいタイミング」があるのでしょう。
 本を全部買っているとお金がもたないので、普段は図書館を利用することが多いのですが、やはり、いつも家に置いてあり、ふとした瞬間に手に取れるというのは、買った本ならではの魅力ですよね。

 『四つ子ぐらし』『作家になりたい』『一年間だけ』『いみちぇん』は特に面白かったようで、その後のシリーズも全て読んだようです。


 

 

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予備校講師×他科目

美しい生物学講義

 通信の大学で「生物学概論」の単位を取ろうとしており、レポートを提出する必要があるのですが、その準備段階として、生物への興味を高めるために『美しい生物学講義』(更科功/ダイヤモンド社)を読みました。

 予備校の授業の中で常々言っているのですが、興味は自分で作ることができます。やり方は簡単で、どんな分野でも良いので、その対象に愛情をもち、楽しそうに語っている人の本を読む(or動画を見るor講演を聞くetc)というだけです。大体どんな分野にも「面白いところ」はありますから、それを心から面白いと思っている人の語りに触れれば、こちらも「面白そう!」という気持ちになってしまいます。
 今回、僕が特に心惹かれたのは、細胞膜について説明している第3章です。生物としては、化学反応が起きやすい水中にいたい。でも、水中に仕切りを作るには水に溶けないもので作るしかない。そういった切実な状況から【リン脂質二重層から成る細胞膜】が生まれたことがわかりやすく説明されており、

細胞膜すげぇ!

…という気になります。これは、大学生時代に『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄/中公新書)を読んだときの感覚によく似ていました。

 この本は「暗記科目でしょ」としか思っていなかった僕の「生物観」を大きく変えてくれました。15年程前に読んだので細かい内容は忘れてしまいましたが、

サンゴすげぇ!

昆虫すげぇ!

…と思ったこと、物事には何でも理由があるんだなとしみじみ感じたことはよく覚えています。高校生のときに読んでいれば、生物の授業への向き合い方も少しは変わっていたかもしれません。『美しい生物学講義』と合わせて『ゾウの時間ネズミの時間』もおススメです。一読すればあなたも必ず、

生物すげぇ!

…と思うことでしょう。

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予備校講師×子育て

本好きの子に

 娘には本好きになってほしいという思いがあり、長女が幼い頃(3~4歳頃)、寝る前に読み聞かせをしたりしていたのですが、あまり上手くいきませんでした。いまいち娘がノッてきていないというか、楽しそうではないのです。自分から本を手にとることも少なく「この子は本に興味をもたないタイプなのかな。押しつけるものでもないしな」と半ば諦めていたのですが、5歳の時、驚くべき出来事が起こりました。長女が『おんなのこのめいさくえほん』(西東社)をかじりつくように読んでいたのです。この本は、少し前にBOOKOFFで見つけ、何の気なしに購入して本棚に並べておいたものでした。約200頁と決して短い本では無いのですが、数日のうちに読み終えていました。

 今まで本に関心を示さなかった娘に何が起こったのかわからず、なぜ読む気になったのか聞いてみると、

絵がかわいいから

…という答えが返ってきました。娘は現代風(?)なかわいらしいイラストが好きなようで、「絵のかわいさ」が本の世界に没入できるか否かを分けていたのでした。僕自身には「絵で読む本を決める」という考えが無かったので「そんなこともあるのか!」と驚き、その後はBOOKOFFで絵のかわいい本を漁るようになりました。

 上の3種は『めいさくえほん』後に娘がハマったシリーズですが、どれも絵がかわいらしいですよね。絵の力ってすごいなと感じさせられます。

 さて、あれから3年程経ち、次女が5歳となりました。「絵がかわいい本」という成功体験があるので、長女が読んでいた本を次女にも薦めてみるのですが、あまり興味が湧かないようで手を伸ばしません。先日、そんな次女を連れて図書館に行ったとき、下の本を借りたいと言って持ってきました。

 なぜこの本が良いのか聞いてみると、

だって、おなら面白いじゃん

…子どもは1人1人違います(笑)




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予備校講師×学校国語

ごんぎつね

 昔から、国語教科書に載っている作品について娘と色々話せたら楽しいだろうなと思っていたのですが、これといった話もできないまま長女は小学3年生になってしまいました。「何もできずに終わってしまう…」と焦り、手にとったのが小学校国語(4年生)の定番教材「ごんぎつね」です。
 20代の頃、国語教育関連の雑誌を読んでいたことがあるのですが、そこには、授業実践の例として「ごんぎつね」がやたらと出てきました。その時は「みんなごんぎつね好きだなぁ…」くらいしか思いませんでしたが、昨年(2021年)の夏ごろ、「そんなにみんな好きなら、自分もいくつか読んでみよう」と思い立ったのです。読んだのは『新美南吉童話集』でした。

 結果、とても良かったです。『ごん狐』の他にも、『でんでんむしのかなしみ』『小さい太郎の悲しみ』『久助君の話』『疣』など、【わかりあえぬ悲しみ】を、こんなにも柔らかな文体で優しく切なく表現できるものなのかと感嘆しました。そして、長女が4年生で「ごんぎつね」を習う前に、もう少し読みを深めておきたいなという気になり、下の5冊を読みました。

『新美南吉研究』
生野金三
※リンクなし

 いずれも新たな発見を与えてくれる良書でしたが、それらを読んでいる中で、「ごんぎつね」を題材に「大学入学共通テスト対策問題」を作っても面白いのではないかという気がしてきました。作品は児童向けに書かれたものですが、表現の特徴・効果を考える題材として優れていますし、教科書に採録されている「ごんぎつね」は新美南吉の【草稿】に鈴木三重吉が手を加えたものなので、【草稿】と【定稿】を比較する複数資料問題も作れそうです。作題を通じて「ごんぎつね」に詳しくなれば、寝る前の娘との雑談にも花が咲きそうだなという考えもありました。

 さて、このような経緯で問題を作った(→教材提供参照)のですが、作ったからには色々な方に使っていただきたいと思っています。すべて西原が個人的に作成したものなので、誤植などのミスが含まれている可能性が少なくないのですが、その辺りを許容していただける方であれば、どなたでもお使いください(西原作の問題を叩き台として、もっと質の高い問題を作っていければ、ということも夢想しています。尚、商用での利用はご遠慮ください)。問題の内容については「教材提供」をご覧ください。

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予備校講師×子育て

書初め(1/9)

 HPを始めて4本目の投稿ですが、また子育て関連です。思っていたよりも早く単なる子育て日記となっています…。

 子供の頃、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒い墨で白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく発露し続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。取り返しのつかないつたない結末を紙の上に(あらわ)し続ける()(しゃく)の念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない行為の痕跡を残し続けていく。紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を累積していく様を()()し続けることが、おのずと推敲という美意識を加速させるのである。

原研哉『白』

 上の文章は2009年に東京大学で出題されたものです。
 1月9日、家族で僕の実家を訪れました。長女の小学校で書初めの宿題が出ているのですが、実家の屋根裏部屋に僕が30年程前使っていた書道セットがあったので、それを使って僕・妻・父(祖父)も同じ課題にチャレンジしました。墨汁も30年前のものながら難なく書けます(後でネットで調べたところ、未開封でも数年以内に使い切るべきとのこと…)。
 やはり、真っ白な半紙を前にすると「丁寧に書かなくては」という意識になりますね。背筋が伸びる感覚がありました。

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予備校講師×子育て

角川武蔵野ミュージアム(1/6)

 「角川つばさ文庫」にハマっている長女と2人で、角川武蔵野ミュージアム(@東所沢)に行ってきました。下の写真は4階「エディットタウン ブックストリート」で、松岡正剛さん監修のもと、約25000冊の本が9つのテーマに分けられ配架されています。

〖テーマ1〗記憶の森へ
〖テーマ2〗世界歴史文化集
〖テーマ3〗むつかしい本たち
〖テーマ4〗脳と心とメディア
〖テーマ5〗日本の正体  
〖テーマ6〗男と女のあいだ
〖テーマ7〗イメージがいっぱい
〖テーマ8〗仕事も暮しも
〖テーマ9〗個性で勝負する

 様々な領域の知が有機的に結びつき、連想が連想を生むような、いかにも松岡正剛さんらしい配架です。本好きであれば「ここ、いつまででもいられるな」という場所ですね。今回は子どもと来ていたので1時間弱でこのフロアを離れましたが、1人で来て1日中本の山に埋もれるのも良いと思います。

 ブックストリートの終点にあるのが、約8メートルの巨大本棚に囲まれた図書空間「本棚劇場」で、約30000冊の本が配架されています。20分に1回プロジェクションマッピングが上映される(写真右)のですが、鑑賞中頭に浮かんできたのは、中島敦『文字禍』でした。

数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲った大地震の時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒れた。夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪の声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した。

中島敦『文字禍』

 今の時代、インターネットを使えば何万冊もの本を簡単に検索できますし、電子書籍も増えていますが、大量の本に圧倒される感覚は、実物の本が堆く積まれたこの空間ならではのものですね。ネット上の図書空間は、本と本、知識と知識を結びつけるフットワークの軽さがありますが、悪く言えば、軽薄な知を生み出す装置になっているようにも思います。本棚劇場は、物理的な高さや重さによって、知の歴史、重みを空間的に表象しているようにも思えました。
 引用した『文字禍』は、文字の霊の力によって人々が観念的な思考に耽るようになってしまうという「禍(わざわい」の話なのですが、本棚劇場にいると、文字や本に備わる「霊力」というのがなんとなくわかる気がします。

 帰宅後、部屋の本棚を無性にいじりたくなり、読まなくなった本を処分しました。「本棚を見るとその人がわかる」と言われることがありますが、僕の本棚には、新しいものを取り入れず凝り固まった僕の脳内がよく表れている気がしました(笑)。途中で数えてみると160冊程だったので、200冊を目標にどんどん袋に入れていきました。数を設定して「記録更新」を狙うと、思い切りがよくなりますね!

最終的に223冊