6月5日。【新美南吉記念館】に行ってきました。昨日の【清洲城】【名古屋城】は長女の趣味に合わせたものですが、新美南吉は父親(西原)の趣味です。この記事でも書いたように、新美南吉「ごんぎつね」は小学4年生の教科書に採録されています。昨年、「娘との会話の材料になるかな」という軽い気持ちで「新美南吉童話集」を購入しました。童話というと「ハッピーエンドの心温まる話」というイメージがありますが、新美作品で描かれるのは「他者との分かりあえなさ」です。「ごんぎつね」も、わかりあえたときには死が訪れるというラストですね。他にも「デンデンムシノカナシミ」「小さい太郎の悲しみ」「久助君の話」など、柔らかく優しい文体で痛切な哀しみを描く南吉の世界にハマり、「いつか必ず記念館に行く」と決めていました。
記念館の中に入ると、「ごんぎつね」など南吉作品の世界観を表現した展示や、南吉の生涯の詳しい解説がありました。その1つが南吉の日記です。
人間の心を筍の皮をはぐようにはいでいって、その芯にエゴイズムがあるということを知る時われわれは生涯の一危機に達する。つまり人というものは皆究極に於てエゴイストであるということを知るときわれわれは完全な孤独の中につきおとされるからである。
(昭和12・3・1 日記)
人間は皆エゴイストである。常にはどんな美しい仮面をかむっていようとも、ぎりぎり決着のところではエゴイストである。———ということをよく知っている人間ばかりがこの世を造ったらどんなに美しい世界が出来るだろう。自分はエゴイストではない、自分は正義の人間であると信じ込んでいる人間程恐ろしいものはない。かかる人間が現代の不幸を造っているのである。
(昭和12・10・27 日記)
ほら、南吉ってやっぱりそうだよね、という感覚でした。変な言い方ですが、いかにも「西原が好きそうなこと」を書き残しています。こんなことを書く人の作品を自分が好きになるのは当然だな、という感覚です。
上の写真は「手袋を買いに」の一幕です。多くの人が子どもの頃に読んだのではないでしょうか。
冷たい雪で牡丹色になった子ぎつねの手を見て、母ぎつねは手袋を買ってやることを考えます。人間を恐れる母ぎつねは、子ぎつねの片手を人間の手に変え、「かならず人間の手のほうをさしだんすだよ」と言いふくめて町に送り出します。店に着いた子ぎつねは、間違えて〈きつねの手〉を差し出してしまいますが、店主は子供用の毛糸の手袋を渡してやるのでした―――。
『手袋を買いに』のあらすじ
……ここまででも十分「いいお話」ですが、僕が心を掴まれたのは最後の場面でした。子ぎつねが「母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや」「坊、間違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、掴まえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」と無邪気に語るのに対して、母ぎつねは次のように呟きます。
「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」
店主は客がきつねだと気づきながらも手袋を渡しました。話の流れからすれば「人間って優しいね」で終わっても良さそうなものです。しかし、母ぎつねから出たのは「ほんとうに人間はいいものかしら」という言葉。全然信じてない……。
勝手な推測ですが、人ときつねの心の交流という〈美しい物語〉を書こうとした南吉と、人間をエゴイストとして捉え〈そっちにはいけない〉としてハッピーエンドを拒絶するもう1人の南吉の間でギリギリの攻防があったのではないでしょうか。そして、最後のところで〈美しい結末〉に行けない南吉という人間に、僕はとても惹かれます。次のような日記もありました。
ほんとうにもののわかった人間は、俺は正しいのだぞというような顔をしてはいないものである。自分は申しわけのない、不正な存在であることを深く意識していて、そのためいくぶん悲しげな色がきっと顔にあらわれているものである。
(昭17 ・4・22 日記)
……もう、わかる、としか言えない。おこがましいけれど。
子ども達は展示には今いちピンと来ていない様子でしたが、缶バッジ作りは楽しんでいました。グッズコーナーに「ごんのぬいぐるみ」があり、普段なら買いませんが、今日ばかりは「南吉の感慨」に浸るまま、子どもにせがまれるままに購入。記念館を出ても帰るのが惜しく、子どもを先に車に帰して写真を撮り続けます。
車に戻ると、長女と次女が「ごん」を取りあい、「抱いた秒数」をめぐって猛烈なケンカをしていました。さっきまであんなに楽しそうにしてたのに……。
「わかりあう」って難しい(笑)。