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ムーミンバレーパーク

 この記事でも少し触れましたが、長女が保育園の年長のとき、流れ星を見るために、2人で清里に泊まったことがあります。2人きりで旅行に行くと「しっかり話せる」感覚があって、家族全員で出かけるのとは違う魅力があります。次女も年長(4月から1年生)になったので、今回は次女と2人で埼玉県の飯能に泊まりに行きました。 
 夕方の授業を終えてから出発したので、飯能駅に付いたのは19時過ぎです。ホテルまで歩く途中ファミリーマートに寄り、娘の希望で「ハリボー(ゴールドベア)」を購入。すぐ近くにもう一軒ファミリーマートがあったので、この旅行のスペシャル感パパすごい感を演出するために「もう1つ、何でも買っていいよ」と伝えます。普段、お菓子を2個連続で買ってもらえることなどないので「何でもいいの!?」と目を輝かせる娘。悩んだ挙句「ハリボー(ハッピーグレープ)」を持ってきました。ハリボーしか勝たん(笑)。

 「ハリボー」はなかなかパンチの効いた色をしています。正直、おいしそうな色とは思えないのですが、次女はとても好きなようです。最近読んだ『視覚化する味覚』(岩波新書)には食べ物の色について次のような記述がありました。

今日当たり前のように使用されている食品着色料は、食品の色を簡単かつ安価に操作できるものとして、色の商品化を促進させてきた。……、食品着色の産業化と色の商品化は、食品の大量生産が進む中で色の画一化をより一層促すものともなった。黄色いマーガリンや赤いケチャップ、緑色のグリーンピースの缶詰など、多くの人が「当たり前」だと思うような色を大量かつ安価に再現する手段となったのだ。そしてそれは、私たちの視覚環境、そして味覚と結びつけられた視覚(色)が次第に標準化されてきた過程でもあった。

『視覚化する味覚』(岩波新書/久野愛)

 ホテルでは夕食を済ませてすぐ就寝。翌朝、ホテル近くからバスに乗り宮沢湖に行きました。北欧をイメージしたテーマパークがあり、無料で入れるメッツァビレッジ(※各店舗・サービスは有料)と、有料のムーミンバレーパークがあります。メッツァビレッジではファンモック(網状のトランポリン)やカヌー体験ができます。

 今回はファンモック目的で来たのですが、次女がムーミンも見たいというので、ムーミンバレーパークにも入園。僕はムーミンについて全く詳しくないので「ムーミンってカバ?(←妖精らしいです)」とか、「玉ねぎ頭の女の子(リトルミイという名前らしい)、奈良美智さんの描く子供っぽいな」とか思いながらブラブラと歩きます。

 

 全体的に綺麗で品よくまとまっていました。自然に囲まれた場所にあるのも「ムーミンバレー」の雰囲気を醸し出していて良いですね。下の写真は「ムーミン屋敷」です。

 なんというか、IKEAっぽい「青」ですよね。日本には「青い外壁の家」って少ない気がします。ムーミンはフィンランド、IKEAはスウェーデンですが、北欧3国の国旗には青が入っています。もしかしたら「青」に抱くイメージが日本人とは違うのかもしれません。
 同じ色でも社会・文化によって意味付けが異なるということはありそうです(いかにも入試評論文に出そうな話です)。もしかすると、僕にはドギツイ色に感じられる「ハリボー」も、文化の異なる人には「食欲をそそる色」に見えているのかもしれません(単に大人と子どもの違いかもしれない…)。


 

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興味が湧いたら学びどき

「パパ、オダノブ好き?」

「え?」

 最近、歴史に興味を持ち始めた長女。「オダノブ=織田信長」でした。長女は昔から、こちらで紹介したような「かわいい女の子が出てくる本」が好きだったのに、なぜ急に戦国武将に興味を持ったのか。きっかけは下のシリーズだったようです。

 『戦国姫』(集英社みらい文庫)。やはり「かわいい女の子」か…。織田信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせるのですが、織田と浅井が対立したことで、お市は難しい立場に置かれます。娘いわくこの状況は「たまらない三角関係」とのこと。歴史を小学生女子視点で考えたことがなかったので、面白い見方だなと思いました。話は少し逸れますが、2021年に金沢大学入試で「グローバルヒストリー」に関する文章が出題されました。グローバルヒストリーとは、歴史を一国、一地域ではなく地球規模の枠組みで捉え、歴史上の出来事を世界的な相互連関の中に位置付けて記述しようとする試みです。視点をどこに置くかで見え方は変わってくるわけですね。

 さて、興味が湧いたら学びどきです。せっかく子どもが歴史に興味を持ったのですから、この時機を逃してはいけません。「戦国」に関連する体験をさせたいなと思い、家族で小田原城へ行ってきました。北条氏の居城です。


 天守閣は博物館として大変綺麗に整備されていました。「戦国勢力図」の前で寝そべって足をばたつかせている3女の対応に追われた後、長女を見ると、必死に「歴史年表」を読んでいます。正直、歴史年表ってあんまり面白くないですよね(笑)。長女を連れて来たのが3ヶ月前だったら、彼女も素通りしていたことでしょう。改めて、興味をもっていること前のめりになっていることの力を感じます。
 最上階からの眺めは素晴らしく、相模湾、伊豆大島、真鶴半島などが見渡せました。

「大阪城と名古屋城にも行きたい!」

 寝る前の長女の言葉です。大阪城と名古屋城は博物館のパネルで見た「全国『天守』高さ比べTOP10」の1位と2位でした(小田原城は7位)。体験して興味が広がっていくのは素晴らしいことですね。新学期が始まるとなかなか時間を作りづらいのですが、1泊2日で名古屋であれば行けるかな…。

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ヴァーチャル→リアル

「森で木の枝を拾いたい」

 昨晩次女に突然言われたので、朝から府中市の公園へ行ってきました。「森」とは言えませんが、背の高い木がたくさん生えています(写真左)。到着するなり、嬉しそうに木の枝拾いを始める次女(写真中央)。なぜ急に木の枝に興味を持ったのか…。理由がわかったのは、切り株(写真右)を見つけた時の次女の発言でした。

 「あっ、作業台!」

 「切り株=作業台」。間違いなく「あつまれ動物の森」(NINTENDO SWITCH)の影響です(笑)。わが家では先々月ようやくスイッチを購入し、このところ長女と次女が「あつ森」にハマっています(僕のテントにはゴキブリが出ていますが、娘達が建てた家はずいぶん立派になりました)。ゲーム内では島で拾い集めた「木の枝」を材料として、切り株の「作業台」の上で様々な道具を作ります。それに影響されて、リアルの世界でも木の枝拾いをしたくなったのでしょう。ゲーム空間は現実空間を模した「ヴァーチャルリアリティー」の世界ですが、次女は「ゲーム空間→現実空間」という順序で木の枝拾いを体験しているわけですね。

 武蔵大学で次の文章が出題されたことがあります(2013年)。

 子どもにとっての「バーチャルリアリティー」とは、見かけは異なるが、彼らが生きる現実世界の本質部分を備えていて、同等の効果を発揮して子どもたちを包み込んでくれる世界ということになろう。子どもたちが、大人にもまして想像的世界に遊ぶ存在であり、そのゆえの架空の世界を必要とするならば、人工的に創出される「バーチャル」な世界も、そのような特質を備えていなければならない。子どもたちが、動物を捕まえたり、それらを飼育することを好むならば、創出される世界にも動物狩りや動物飼育の場が用意されていてしかるべきであろう。子どもたちを魅了した「ポケットモンスター」やペットの「飼育ゲーム」は、少なからぬ大人たちの顰蹙を買いはしたが、子どもの世界のある種の本質が捕捉されていて、それがコンピュータ・ゲームとして生成されていたという点で、子どもたちに「人工現実感」を体験させていたであろうことは疑うべくもない。 

本田和子『子ども100年のエポック』

 自然の中で遊ぶという経験の幾らかは「あつ森」でも体験できるということでしょう。続けて引用します。

 子どもたちが喜々として入り込んでいく「バーチャル」な世界に、もし、先行する大人世代が介入する余地があるとすれば、こうした現在の不備に対処すること、具体的には、「体性感覚の重視」とそのための「機会の提供」ということになろうか。

本田和子『子ども100年のエポック』

 子どもがバーチャルな世界に浸ることを一概に否定すべきではありませんが、その世界には、自分の手で触り、身体を通して実感するという経験が欠如しています。したがって、大人は「機会の提供」を意識しなくてはいけない。やはり実体験「も」大切だということですね。今度家でゴキブリが出たら、娘に退治させようと思います。

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雑記

読書の工夫➀【かさねる読書】

 僕が本を読む動機は【楽しいから】と【仕事で必要だから】が半々くらいです。「根っからの読書好き」というタイプではないので、時には自分を読書に向かわせる工夫が必要になります。ここではそんな「読書の工夫」を思いつくままに挙げていきます。初回は【かさねる読書】です。

文字(本)+ 映像・絵(映画・マンガ)

 「〇〇について理解を深めたいけれど、難しそうだな。とっつきにくいな」というとき、僕は映画やマンガを活用します。映画やマンガの優れた点は、視覚情報が与えられるので具体的にイメージしやすいこと、また、—良作であればー心を動かされるので、対象についての興味が喚起されることです。「興味」の大切さは、日々の授業で痛感するところで、文章の内容やこちらの話に興味をもち、前のめりになっている生徒は半年後でもその内容を覚えていますが、逆に「興味無いです」という顔の生徒は、1週間後にはほぼ丸々忘れています(→どうやって生徒の興味・関心を喚起するかが、ぼくの授業のテーマの1つです)。
 あるテーマについて、基礎知識が無い状態で文字情報だけ取り入れても理解が難しく、記憶にも残りにくいのですが、はじめに映像的なイメージがあると、そこに文字情報を貼り付けていくような感じで、理解を深めることができます。文字情報と(映像・絵などの)視覚情報を重ねていくイメージですね。以下、そんな【かさねる読書】の実践例を示します。

◆ ◆ ◆

〖テーマ〗「ドイツ現代思想」
→昨年(2021年)の早稲田大学入試でドイツ現代思想に関する文章が出題され「もっと理解を深めなくては」と思ったのが学びの動機です。下の画像をご覧ください。上段が〖読んだ本〗で、下段が〖観た映画〗(左の2作品は最近、右の3作品は1年以上前に観たもの)です。

 本は『フランクフルト学派』→『戦後ドイツ』→『現代ドイツ思想講義』の順で読みました。仲正先生の『〇〇講義』のシリーズは、他にいくつか読んだことがありますが、想定している読者のレベルがやや高く分量も多いので『フランクフルト学派』と『戦後ドイツ』で基礎知識を固めてから挑戦するという作戦です。ただし、この2冊も、初学者向けとはいえ専門家が書いた(良い意味で)堅い本なので、映画を見て具体的にイメージしながら読み進めます。
 映画として1番面白かったのは『帰ってきたヒトラー』でしたが、本の理解という意味では『顔のないヒトラーたち』が最も役立ちました。この作品で描かれていた戦後ドイツの様相は、『戦後ドイツ』p.122の記述そのものでした。下に示します。

(アウシュヴィッツ裁判の)被告人たちが戦後は「カタギの」職につき、誰からも好かれるごく普通の善良な市民として家族、友人、同僚たちのなかで暮らしてきた事実は、「人あたりの良さ」とか「品のいい物腰」とか「物分かりの良さ」というものが、いかなる防波堤でもないことを思い知らせた。むしろ、そうしたものは、社会的適応の産物でしかなく、そのつど強い方につくという権威主義的パーソナリティの現われ以外のなにものでもないのではないかとすら思わせた。

三島憲一『戦後ドイツ』p.122

 漠然と、ドイツでは戦後すぐに戦時の行為を反省する動きがあったのだと思っていたのですが、そうした動きが本格化したのは1960年代だったようです。『顔のないヒトラーたち』からは、1950年代後半から60年代前半のドイツのそうした「雰囲気」がよく伝わってきました。
 『オデュッセイア物語(上)』『オデュッセイア物語(下)』は、当初は読むつもりはなかったのですが、『現代ドイツ思想講義』の中で紹介されており、アドルノ&ホルクハイマーの思想(=理性は野蛮につながっている)の理解につながりそうだったので読みました。ドイツ現代思想とは関係ないですが、オデュッセウスが怪物を倒すシーンが『古事記』と似ていたり、魔女キルケ―の能力が『高野聖』の女と似ていたりと、いろいろと日本の話との類似点があって面白かったです。思わぬ広がり、つながりを見せてくれるのが読書の楽しみの1つですね。